開業
開業
私は鍼灸の免許を取ったらすぐに開業しようと思っていました。
同期の中にも何人かそういう方もいました。
しかし、今から考えると無謀な事をするなと反省するのですが・・・
その当時の私はいいのか悪いのか特に考えもせず、開業すればすぐに患者さんが来て、すぐに儲かると思ってたからです。
なんとも向こう見ずというか、怖いもの知らずというか。
なぜかというと、一つは全く開業資金がかったことです。学校の授業料を払うのに精一杯だったため、貯金をしていなかった事がその原因です。
店舗を借りる資金がなかったため、自宅の2階の自分の部屋を改装してと言っても、ベッドを置いて、カーテンを替えて、待合室用のテーブルと椅子を置いただけの簡素なものでした。あっ、あと床のニスを塗り直しました。
今、思うと看板は出していましたが外から見ればどこにそんな施設があるのか全く分からないのです。
しかも、患者さんには不便な2階にです。鍼灸院に来る人は腰や膝が悪く階段を上がるのも困難という人が少なからずいるのにです。
最初は往診専門で開業しても良かったのかなと今になると思ったりします。
もう一つは治療する技術がほとんど無かったということです。
本来ならどこかに数年修行に行くとか、勉強会に参加してある程度腕を磨いてからとかあるのでしょうけど、どちらもせずに学校の実技で学んだ事や、治療の本を買って自己流で治療を始めたというのは考えものです。
それでも時々来る患者さんを少しでも良くしたいという思いはありました。
そんな時、私の妹が甲状腺の病気で様々な症状に悩まされていました。
自己流の治療でやってみるものの全くと言っていいほど良くなりませんでした。
そこで、同期の友人に何かいい方法がないか相談したら、首藤先生の治療法でやってみたらと教えてくれたのです。
首藤先生とは大分にいらっしゃる先生で、鍼灸師なら知らない人はいないという方です。
首藤先生は経絡治療で、しかも鍼をほとんど刺さないという治療法で臨床をされている先生です。
首藤先生のことは存じあげてはいたのですが、そんな治療法で本当に治るの?という考えを持っていたため関心を持つことができませんでした。
しかし、背に腹はかえられないと気持ちを切り替え、首藤先生の勉強会に参加していたその友人にレクチャーしてもらい、自分の体に試して練習しました。
最初はその良さが実感できなかったのですが(技術がないから当たり前か)、2,3ヶ月すると鍼をするのが気持ちよくなってきました。
今までのやり方ではそんなことは感じることが無かったので鍼がこんなに気持ちがいいものだという感覚を得たのは初めてでした。
そして、ある程度自身がついたので妹の治療をしてみたところ、2週間に1回の治療で3ヶ月ほどすると妹の体調が良くなり、普通の日常を取り戻すことができたのです。
それからは経絡治療という治療法で日々の臨床に立っています。
入学・・・その後6
いよいよ国試
色々なことがあった学校生活も残り数ヶ月となり国試に向けてラストスパートがはじまりました。
国試の対策勉強といえば兎に角、ひたすら過去問を解くという作業でした。
同期の中でリーダー的女性がおり、その方を中心に10名程が毎週日曜日には貸スペースを借りて勉強会をしていました。
その女性はみんなの為に科目毎に問題集を作って配布してくれました。今でもそのことを思うと頭が下がる思いです。
普段の日はその問題集を繰り返し、繰り返し解いていました。そして、分からない所があればみんなが集まる日に相談したり、聞いたりしていました。
みんな社会人ということや、卒業後の目標があるためやる気のある人が多く、そのような人たちに負けたくないという思いもありましたが、みんなで一緒に合格したいという思いもあり頑張れたのではと思います。
そんなこんなで国試まで残り数週間となった時に学校の試験を実施するという話があり、学生からはこんな時期にする必要あるのかという不満が噴出しました。確かに学校の卒業見込みがあるものが国試を受けられる条件だったので実施せずを得ない理由は分かるのですが、もっと時期を前にするとかという案が出ても良かったのではないかとその時は思いました。
科目によってはとても難しく国試の学習に手を付ける事ができないものもありました。
人によっては試験をパスする事ができずに再試を受けている人もいました。
国試まで残り1週間となる前にその週は学校に来ることは個人の判断に任せるという学校側からの通達がありました。
その週に学校に来のは20名中、7,8人でした。
私もその7,8人の中に入っていました。私は生活のリズムを変えたくないという理由で学校に行ってました。
そして、国試前日に試験会場がある近くの宿泊予定のホテルに行ったのですが、兎に角緊張してほとんど眠れず(ビールも飲んだのですが・・・)に試験をうける事になりました。
試験中は緊張で全く眠気はなっかたのですが、手がガチガチになって丸をうまく塗りつぶせなっかたり(マークシート式)、手汗で問題用紙が波をうったりとありましたが試験は無事に終える事が出来ました。
手応えはあったのですが、試験が終わるとすぐに学生同士で答え合わせをしました。
その時点で合格圏内にいることは分かってたのですが、合格発表があるまでは気が気ではありませんでした。
合格発表の日は友人の会社のパソコンからネットにつないで見たのですが、その友人も私も合格しており二人で握手したのを思い出します。
結局、夜間の部の学生は20名中、18人が合格しました。
ちなみに落ちた2名のうちの1人は3年後にようやく合格しました。その人とは卒業後も交流があり時々呑みに行く間柄です。
入学する前、入学後と色々ありましたが、今はこの鍼灸師という職業に就いて良かったと思います。
卒業後、3ヶ月経った頃に開業したのですが、今からすると無謀な事をと思います。
その事はまた次の記事に書きます。
入学・・・その後5
青天の霹靂
順調な学校生活もあと十ヶ月となったある日のことです。
その当時はホテルでしていたリラクゼーションマッサージのバイト一つに絞っていた時でした。
そのバイト先の社長の奥さんとは鍼灸学校で同期という関係でもありました。ある日、その奥さんが学校から呼び出しがあり行ってみると、関わっている仕事に関しての注意があったそうです。
その内容はあんま・指圧・マッサージの免許を持たずにリラクゼーションマッサージに従事するのはいかがなものなのかということでした。
リラクゼーションマッサージとあんま・指圧・マッサージ師が行う施術には違いがあり、前者は飽くまでも”慰安”を目的としたもの、後者は治療や健康維持・増進を目的としたものという違いです。
本来はマッサージはあんま・指圧・マッサージ師の免許を持っていないと施術できないことになっています。それは「あ・は・き法」(あんま・指圧・マッサージ・はり・きゅうに関する法律)の中に医師以外の者があんま・指圧・マッサージ、はり、きゅうを行う場合はあんま・指圧・マッサージ師、はり師、きゅう師の免許を持っている事を義務付ける文言があります。
学校側の言い分としてはこれからはり・きゅうの免許を取ろうという者が法律に反した行為を行っているのはいかがなものなのかということでした。
私もその事は理解していたのですが、治療を目的としているわけではないし、何よりお客さんの体にふれることは一番の勉強になるという思いがあったから続けていたわけです。
社長の奥さんは学校側と施術はしないで受付業務に専念するということで話がついたようですが、無免許の学生(私のこと)を雇うことも問題があるため、これ以上は雇えないということでその日にバイトを辞めざるをおえなくなりました。
その当時は「いきなりクビを切るなんてひどい」、「せめて次のバイトが見つかるまで猶予があってもいいじゃん」と思っていました。
しかし、授業料を払うためには一刻も早くバイトを探さないとという気持ちにすぐ切り替えてバイト探しを始めました。
運良く、すぐにバイトが見つかりました。
一つは3ヶ月の期限がある地図を作成するバイト、もう一つは工場の中でデザートを作るバイトでした。
夏休みに入る前一ヶ月間は午前8時から午後5時までバイトして、午後6時から午後9時まで学校で授業を受け、午後11時から午前4時までバイトをするという生活を送りました。
そのときは眠気との戦いで隙があれば寝ていました。
その後は夜間のバイトだけになりましたが。
なんとか難局を乗り越える事が出来たことを今では懐かしく思えます。
入学・・・その後4
テスト
鍼灸学校では中学校や高校のように期末毎に学科と実技の試験がありました。
学科では解剖学、生理学、病理学、東洋医学概論、東洋医学臨床論など、実技でははりと灸は勿論なのですが理学検査や血圧測定(水銀計)などがありました。
学科のテスト期間は夜間部ということもあって、多くの時間が取れないということで一日に2教科ほどでした。
教科数が少ないのは働いている身としてはメリットでしたがその分テスト期間が長くなるデメリットもありました。
テスト期間が長くなると睡眠不足になりやく、1度だけでしたが幻覚を見たこともありました。
学科のテストは先生によって難易度に差があり、ある程度テストで出される問題のヒントを教えてくれる先生もいれば、全く教えてくれない先生もいました。
前者は社会人ということを考慮して少しでも負担が軽くなるようにという思いだったと思います。
後者は国試に向けてあえて厳しくしていたのではないかと思います。
学科のテストは及第点に達していないと再試を受けなくてはいけませんでした。私の記憶では再再試まではあったと思います。再再試も及第点に達しなかったらレポート提出の課題が課されます。
私の後ろの席の男性は2~3教科を落としてしまい、授業中にレポートを書いていましたが、その授業が疎かになるため授業内容についていけず、結局その教科のテストも後々落としてまたレポート書くという悪循環に陥ってしまいました。
その男性は国試に合格すれば学校の卒業認定を得られるという特例措置を提案されていましたが国試をパス出来ず1期生として卒業は叶いませんでした。その後、1年間留年して再度国試に挑戦したようですがその時もパス出来なかったと同期から話を聞きました。
話は変わって実技テストの時は1人1人テストを受けるため非常に緊張しました。
あるときの実技テストの時はくじ引きで私がトップバッターということがありました。その時のテストは「翳風(えいふう)」というツボに鍼をするという試験でした。そのツボは耳たぶの後ろで顎の付け根にあるのですが手が震えて被験者の耳たぶもプルプルプルーと震えていました。
テストはギリギリ合格でしたが試験官の先生も耳たぶが震えていたのが面白かったみたいで休憩時間中には笑い話になっていました。
鍼灸学校を卒業してから10年以上経ちましたが患者さんの治療は試験を受けるような緊張感があります。
さすがに手が震えることはなくなりましたが・・・
入学・・・その後3
お灸の実技
今回はお灸の実技の話をします。
と、その前に
落語の演目に「強情灸」というものがあります。
カンタンにいうとAという男とBという男の我慢比べの噺なのですが・・・
ある日、腰痛には灸がよく効くと聞き、Aという男が「峰」という治療院に行きました。通常は一つ一つのツボにお灸をしていくのを気短で強情なAは背骨、腰骨を挟んで両側の36箇所のツボに一気に火をつけろと言い放ち、本来なら一箇所のお灸だけでも熱いのにそこに一気に火をつけたものだから今にも逃げ出したいのを我慢して「う~、う~」唸っているとそれを見ていた周りの人間が「この人は人間かい?」、「神の化身じゃないのかい」と好き勝手なことを言われました。
お灸をした帰りにBにその話をするとお灸ごときで自慢をするんじゃないと家の奥からもぐさを持ってきてBは自分の腕に山盛りのもぐさをのせました。それに火をつけたのですが火の勢いが強くなり、脂汗をかきながら「五右衛門・・・」と言いながら我慢していたのですがとうとう我慢出来ずに火が付いたもぐさを払い落としてしまいました。
そのあとも「五右衛門・・・」と唸っているとAが意地悪く「五右衛門がどうしったって?」と聞くと「・・・さぞ熱かったろうなぁ」
みなさんもお灸というと熱いし、痕が残るとかいうイメージがある方もいるかもしれません。
しかし、現在ではお灸は熱くなくても十分に効果があることが分かっています。
当院でも患者さんが希望しない限りはもぐさの火を途中で消す、知熱灸というやり方でお灸をしています。
このお灸も鍼灸学校で初めて経験したのですが・・・
まずはもぐさを米粒大または半米粒大にひねる練習をします。
それができるようになると碁盤の目が入ったA4紙位の大きさのベニヤ板に5分で何個もぐさを捻って火を付けられるか競ったり、やはり碁盤の目が入った紙にもぐさを捻って火を付けて紙に穴を空けないようにしたりという練習をしました。
なぜだか分かりませんがお灸はいづれの練習も優秀な成績を残すのは女性が多かったです。
私は学校時代はお灸が苦手で試験をパスできずに夏休みの宿題にお灸の練習が課されました。(現在は数段うまくなっているはず?)
これからも鍼灸学校時代を思い出し、心地よいお灸を患者さんに提供できるように練習に励みます!
入学・・・その後2
はり実技
自分自身にはりを打つことに慣れてくると、いよいよ生徒同士ではりを打つという実技に移ります。
実技の時間は実技室に移動して、二人一組になるのですが私のパートナーはたまたま鍼灸学校で出会った中学校の同級生でした。(彼とは小学校も同じでまさに運命の出会い?!とでもいうのでしょうか)
と言っても、やはり素人にはりを打たれるのは怖いものでした。
最初にどのツボにはりを打ったかは確かな記憶はないのですが、たぶん足三里とか曲池とかオーソドックスなツボだったと思います。
ビクビクしながらもはりを打ってもらうと(5ミリ程度、切皮といいます)、彼の腕がいいのか以外に痛みは感じませんでした。
今度は私が彼にはりを打つ番になりました。緊張で手が冷たくなり、硬くなっていましたが、これも意外と痛みを感じなかったようです。
しかし、月日が経ってはりを打つことに慣れてくると気が緩むせいかはりが打つのも打たれるのも時々でしたが痛いということがありました。
私たちの横のベッドではりをしている組からは「オマエーっ!」という声が聞こえてきたこともありました。(はりを打たれた時の痛みではなく、はりを5ミリ程入れてそのはりを上下に動かす雀啄術という手技が粗くなったみたいで痛かったようです)
はりを打ってた方は思いがけない一言に戸惑い、苦笑いでしたが声を出した方は咄嗟にでた言葉だったようで後に謝っていました。
今の私の主なはりの手技は接触鍼(はり先をツボに当てるだけで体内に入れない刺激感のほとんどない手技)を主にした治療をしているので鍼灸学校時代の実技でやるような手技はほとんど使わなくなりました。
はりの実技では電気ばりもしました。
電気ばりで使用するはりは少し太めです。
現在、私が主に使用するはりは02番(はりの直径 0.12ミリ)と01番(はりの直径 0.14ミリ)という細いはりなのですが、電気ばりで使用するはりは3番(0.20ミリ)以上という決まりがありました。
02番のはりより0.18ミリしか太さは変わらないのですが、これを1センチ以上は入れないといけないので体感的にはズーーンとくる感じです。
3番のはりを5センチ位の間隔で2本打って、その2本それぞれに電極を挟んで電気を流します。そうすると、その2本のはりの間のヒフがビクンビクンと動きます。
これも開業してから機械を買って何回か使いましたが、現在は押入れの奥で眠っています。
あとは、小児はりとか灸頭鍼とかも少しでしたが、実技でしたことがありました。
次はお灸の実技の話をしたいと思います。
入学・・・その後
平成17年4月
平成17年4月に鍼灸学校夜間部1期生としてして無事入学できました!
夜間部は昼間部とは違って、年齢層の幅が広く下は18歳から上は60歳まで在籍していました。独身者、既婚者、中には夫婦で通っている方もいました。
夜間部の生徒はほとんどが昼間は仕事をしていました。一番多い職種は医療関係でした。作業療法士、検査技師、介護士、整骨院助手、鍼灸助手、漢方薬局経営者などなどでしたが、みなさん今の自分のスキルにプラス要素を身につけたいというのが入学の動機だったようです。
そのせいか、みなさん真剣に取り組んでいたのを記憶しています。
そういう私はというと、入学とほぼ同時期に昼間は派遣でセメント工場、夜はホテルでリラクゼーションマッサージのバイトを始めた頃でした。
セメント工場ではセメントを流し込む型枠をクレーンで運んだり、固まった製品を磨いたりするのが主な仕事でした。
そして、学校が終わった9時過ぎからホテルに行き、待機所で待って依頼の電話が入ると部屋に行って、リラクゼーションマッサージをお客さんに施すという生活が始まった時期でもありました。
学校の授業は専門科目(当たり前の話なんですが・・・)がほとんどでしたが、中国語や英語の授業もありました。
専門科目は東洋医学は勿論なんですが、西洋医学(解剖学、生理学、病理学など)両医学を学習しないといけませんでした。(厚生労働省がカリキュラムを決めているようです)
解剖学や生理学は少しかじった(トレーナー養成学校時代)ことがあるのですが、東洋医学は見るもの聞くものが全て初めての物でとても新鮮でした。
そして、一番の興味ははり・きゅうの実技でした。
最初は練習台にはりをすることからはじまりました。
厚さ5ミリ程のゴム板にはりを打ち、少しずつはりを入れていく練習から始まり、1ヶ月くらいそういう練習をしたと記憶しています。
1ヶ月後から今度は自分の足にはりを打つ練習が始まりました。
自分の足とはいえ、やはり緊張するもので恐る恐るはりを打ったことがなつかしく思えます。
自分自身にはりを打つ事に慣れてくると、いよいよ生徒同士ではりを打ち合うという段階に進むのですが・・・